長春便り第4報  帰国まで

南湖賓館

6月19、20日に期末テストが終わり、採点、個別指導、短期派遣教員の送別会(2度)、その答礼の宴会、文部省、国家教育委員会の視察団の歓迎宴会、帰国のための荷出し、教員室の整備など慌ただしく日が過ぎました。
今年は戦後50年というわけで、日本から文部大臣が中国を訪問。その随行員の一人が国家教育委員会のトップと赴日留学生予備学校を視察。学生と懇談しました。お陰で宴会がひとつ増えて、珍しいところへ行くことができました。南湖賓館。ハンサムな兵隊の立つ門からメインの建物まで、広い森の中に2階建ての瀟洒な建物が点々と散在し、手入れの行き届いた庭と、しゃれた街灯のともる道路、夕暮れの中、一瞬長春にいることを忘れました。ここは国家の要人と、外国からの賓客が主に泊まるところだそうです。ある先生の案内で賓客の泊まる部屋の中を見せていただきました。部屋の中は中国風の意匠に統一されていました。中国の工芸の粋を集めた作りと調度、設備は最新鋭、この街のたてものにすっかり慣れていた私達にとってはこれが本当の中国の文化だったのだと驚きました。
シンプルで、上品で、それは美しいものです。文化大革命ですべて壊されたと思っていましたが、ここには残っていたんですね。

食事のために通された部屋は、別棟にあり、ここはイタリー風というのでしょうか、天井にフレスコ画が描かれ、調度品は上品で、その他は白、金、ブルーに統一された広い美しい部屋です。日本でも外国からの賓客用に赤坂離宮というものがありますから、当然といえば当然ですが、長春のような地方都市にもあるとは驚きです。

料理も味が良く、うずらのピータン、鹿の腱の煮物、すっぽんのスープ、その他、日頃余り口にできないものばかり、メニューをもらうつもりにしていましたが、うっかり忘れてしまいました。8月の末にまた、文部省からもっと偉い人が来ますから、また行けるでしょう。今年は戦後50年でもあり、この赴日留学生のプロジェクトの15年を一区切りとして16年目の新しいスタートの年。また、秋の国家重点大学への指定がほぼ100パーセント決まりそうだという情報もあり、動きが慌ただしくなってきました。などなどついに夏休みになり、ようやく大連、ハルビンへの旅行でのんびり休日を過ごすことができました。 


大連への旅行
大連は大都会です。ここへ来て初めて、長春は田舎だということがわかりました。まずごみが少ない。建物がしゃれている。1流のホテルがあり、紅茶が買える。神戸と同じパンがある。大連では大連外語学院の招待所に泊りましたが、エアコンもあり、大理石の洗面所にゆったりしたバスタブ、最新の設備の寝室。これで一泊240元。ようやく人心地がつきました。大連は長春から汽車で12時間、飛行機で1時間半。かつては日本から大陸へ渡る玄関口としてにぎわったところでもあり、今は上海、天津と並ぶ貿易港として経済開放の先端を行く街です。ここでは3泊。ゆっくり街を歩きました。日本人が建てた洋風建築の家々、ロシア風の建築物。最新の高層ビル。放射線状に広がる街路。緑豊かな坂の街。下町に行けば、活気に溢れた海鮮市場、道路を埋める出店の数々。大連駅は日本の上野駅に似せて作られたとか。港に沿って、終点までちんちん電車にも乗ってみました。滞在型の旅行は楽しいですね。


ハルビンへの旅

6月28日の夕方大連駅からハルビンヘ軟臥に乗って出発しました。軟臥というのは1等寝台で、外国人あるいは、党幹部、退職した軍人など、特別の人が優先的に乗ることができます。入口も、待合室も別。4人一部屋のコンパートメントになっていて、サービスが違います。一般の人は硬座、あるいは硬臥に乗ります。硬臥は6人1組、昔の2等寝台。ドアもありません。驚いたことは硬臥にしろ軟臥にしろ、ベッドにカーテンがないことです。男性はともかく女性にはちょっと問題です。

ハルビンまで16時間広々した大地をひた走りました。地平線はるか遠くまでとうもろこし畑が続き、夕日が沈む風景は、すばらしいものです。昔はコウリャン畑が続いていたのでしょうが、今は、豊かな水田ととうもろこし畑が広がり、ポプラの並木に点々と農家の赤い屋根が映え、想像とは全然違う豊饒さを感じました。
東北地方のお米はとてもおいしく、コシヒカリやササニシキと変わりません。桂林路市場ではいちばん高いもので1キロ3.5元(35円)。中国でこんなにおいしいお米が食べられるとは思いませんでした。
ハルビンではハルビン工程大学の招待所に泊りました。この招待所は古くて古風な感じですが、元軍隊の招待所だったので、とても清潔で立派です。1晩150元、旅行をする時は招待所に泊るに限ります。普通のホテルに泊まれば1晩700元〜800元。師大で予約を取ってもらいます。
中国では大学間の連帯が強いので、大学関係者は互いに便宜を図り合っているところが多いです。また留学生も旅行の際には、各大学のドミトリーに泊まることができ(一晩40元程度)、とても便利です。

ハルビンには、ロシア人が多くロシア建築が随所に見られます。我々は有名なロシア料理の店に行きました。建物は帝政ロシアの雰囲気が残っていて、絢爛豪華。けれども観光化していて料理はいまひとつでした。ここのメニューも全部中国語で、ボルシチがどれか、ピロシキがどれか見当がつきません。
ハルビンのロシアンマーケットもうわさに聞いていましたが、骨董品屋が五・六軒と、後は今できのつまらないお土産物屋ばかりでがっかりしました。ところがひとつだけよかったのは、外貿市場、ここはロシアからの毛皮の店がいくつかあり、貂、ミンクなどの帽子やコートが並べられていました。値段はとても安い、最高級に見えるミンクのロングコートが1万元(約11万円)Kさんの話によるとこれは日本では100万円はするとのこと、縫製も良さそうです。
ただ惜しいことにサイズが大き過ぎ、ハーフはいいものがありませんでした。二人で散々悩んで、結局貂の帽子に落ち着きました。これなら北海道でかぶれます。ところで、ハルビンの松花江のそばに香港資本のホテルができていて、そこのブッフェがいいと招待所で知り合った先生に聞いて、行ってみました。全員感動しました。
きめ細かいサービス、日本と同じ清潔さ、おいしい西洋料理、パン、デザート、バター、こんなに嬉しいとは思いもしませんでした。
中国料理は気にいってはいましたが、この気持ちよさは4か月ぶりです。

中国(長春)のサービスの悪さ、不潔さにすっかり慣れていた自分に驚きます。悪いところへ来てしまいました。お陰で食べ過ぎ、夜は胃痛と下痢に苦しめられました。


731部隊
次の日は、ハルビン郊外にある731部隊いわゆる細菌兵器を製造していた日本軍の研究所へ行きました。
ここは森村誠一「悪魔の飽食」吉村昭の「のみと爆弾」などの舞台になったところです。今年は戦後50年に当たり、中国各地で、さまざまな記念行事があります。
日本人にとってはつらいところです。長春でも元新京だったということでシンポジウムや種々の展覧会が計画されています。
先日偽故宮ヘ行ったことを思い出しました。偽故宮というのは、満州国皇帝溥儀の住まいで、そこには日本の傀儡政権であった満州国皇帝溥儀の一生が写真と資料と共に展示されています。いわゆるラストエンペラーの舞台がここです。

ここでも日本軍が行った残虐行為の数々に、日本人は声をひそめずにいられませんでした。でもおもしろいことにここ731部隊にも、日本人向けのお土産がたくさん用意されています。昔のお札、満州国の古い地図、馬瑙の碁石、麦わら細工、日本語のできる服務員が、笑顔一杯で売りつけようとします。私たちは何も買いませんでしたが、罪悪感に駆られて買う人が多いのでしょう。                    

ハルピンからの帰り

ハルビンからの帰りは、軟座が取れなかったので、硬座で帰ることになりました。
中国では汽車の切符を取るのが難しい。
付添の高先生と2度ハルビンの旅行社へいって、ひたすら待ち、やっと切符を手に入れました。

ツアーの旅行以外は、とても大変です。よほど中国語ができないと個人旅行は不安です。でも中国の庶民が乗る硬座とはどんなものかとても楽しみでした。

日本で、テレビの番組「世界の車窓から」というのを見ると、中国の一般の人が乗る硬座は、活気と喧騒に溢れ、食べ物のくずが、床一面に落ちているという印象を持っていましたが、実際は、しょっちゅう服務員が掃除に来るので、とても清潔で、車内禁煙、食べ物の車内販売もきちんと行われ、5元払えばリクエストの音楽がかかるなど、快適なものでした。

たばこを吸うと、車掌が来て罰金5元取られます。ちょうど斜め隣の若い人が、たばこを吸い、車掌と罰金を払う払わないの押し問答をしていましたが、回りの中国人はそれを取り囲んで、じっと静かに成り行きを見守っているのが印象的でした。

結局態度が悪いということで5元が10元になり15元になるというところでその若者は軟化し、その後1時間、車掌との間で折り合いがついたらしく、10元でけりがつきました。

それで思い出しましたが、大連にいた時、通りの真ん中で30代の女性が二人、口論の末、たたき合いにまで発展するけんかをしていました。

回りには老若男女が30人くらい、じっと成り行きを見守っています。
日本ならたたき合いが始まったところで、それまで聞いていた誰かが、二人の間に割ってはいって、けんかを止めさせると思うのですが、誰も止める風もなくただじっと見ているのです。

冷たい目というのでもなく暖かい目というのでもなくただ静かに見ているというのは不思議な光景でした。汽車の中と同じ光景です。時間がなかったのでその場を去りましたが、たぶんおさまるまで後一時間ぐらいかかるのでしょう。暇なのか何なのか良くわからない、おもしろい現象です。

硬座は6人掛けのボックスと4人掛けのボックスに分けられ、背もたれは垂直なので、4時間も乗るとかなり疲れます。ここで驚いたのは、前に座っていた32才くらいのきれいな服を着た女性、疲れたのだろうとは思いますが、短めのスカートをはいているにもかかわらず、立て膝はするは、大股開きはするは、前に座っている我々は目のやり場に困りました。
これでまた思い出しましたが、長春で一元バスに乗っていた時のこと。きれいな若い女性が、腕を上げた瞬間、見えました、黒々と脇の毛が、一瞬我々はぎょっとしました。
あれは何だったのでしょう。若い女性までが痰をところ構わず吐く。手鼻はかむ。自転車に乗る時長いスカートを手に巻きつけてハンドルを持つ。百年の恋も冷める思いです。博士班の学生の中では見たことがありませんが、教育の問題でしょうか。わかりません。何だかすぐ脱線してしまいますね。



長白山旅行で事故

7月30日とんでもないことが起こりました。

7月28日から3泊4日の予定で、予備学校主催の長白山へのバス旅行があったのですが、帰途にバス事故が起こりました。

奇跡的に死者はなく、参加しなかった我々(専門日本語、基礎日本語のそれぞれ団長、東工大の50才代後半のお二人、私)は本当に胸を撫で下ろしました。原因は豪雨と、地図を持たぬ運転手が何度も道を間違えた挙げ句、ロスタイムを何とかしようと、地道でスピードを上げ過ぎ、旧カーブを曲がり損ねたためで、バスは路肩をはずれ、30メートルの間を1回転し、6メートル下の草地で止まりました。

スピードは80キロを越えていたそうです。雨で地面が柔らかくなっていたため衝撃が少なかったことが、幸いしたようです。落ちた場所が、もし草もなく、岩のあるところなら、確実に死者が出たでしょう。

 マイクロバスは20人乗り、日本語関係の教員は7名、その家族3名、助教さん3名予備校関係者3名、運転手とその家族(妻と娘)。この運転手はバス会社がよこしたものですが、なぜかその家族も一緒でした。

私はこの旅行がある前に2度、長春郊外のカロン湖とハルビン(前のハルビン旅行の後専門日本語の先生が行くというのでもう一度出かけたのですが、往復9時間)ヘ予備校のバスで出かけましたが、自転車や、ろばの引く荷馬車が通る普通道路を時速140キロメートルで走る、また追い越しの時にはセンターラインを完全にオーバーして走る、2重3重追い越しなどなんでもない、などとても通常の感覚では耐えられない状態を経験しました。

すべての車が同様の状態で走るのですから、その恐ろしさは乗ってみなければわかりません。またハルビンヘ行く途中では、走行中タイヤがパンクし、かろうじて、路面をはずれないで止まった。という恐ろしい経験をしました。ちょうど140キロから80キロ程度に速度を落とした時にパンクしたのです。

その時もバスは定員いっぱい。私はもう2度とバスに乗りたくないと思いました。長白山まで、通常往復26時間かかるそうです。満員のマイクロバスで行くのは体力的にも自信がなかったこともありますが、中国の交通ルールについていけないと思ったことも参加しなかった理由です。

日本人教員関係者10名は、肋骨骨折2名、腰骨強打で自力歩行不能1名、後頭部裂傷2名(2センチ程度)、教員の家族の一人が右肩靭帯損傷、予備校関係者は、鎖骨骨折1名、鼻骨陥没・眼窩打撲1名、ほとんどが打撲傷、擦過傷を負っており、2名がほぼ無傷(このうち一人は転落途中で濡れた草地に窓から投げ出されたためです)。 

ほとんど車の通らない地域でもあり、前日からの豪雨のためにあちこちで道路が寸断され、ひどい傷を負った3にんが、何とか100キロ離れた敦化市にたどり着いたのは事故発生後、6時間後のことです。もし出血のひどい人がいたら、確実に死んでいただろうというのが、全員の意見でした。

バスの走行から始まって、広い中国では日本では考えられないようなことが日常のすぐそこに転がっている、また負傷者に対する対応、保険や後遺症に対する考え方、事故が発生したことに対する反応(予備校関係者、それを聞いた学生の)を見ても、中国の人は日本人と似ているが、まったく違う民族だということが実感されました。

これはこの6か月中国で過ごしての感想も含みます。基礎日本語の先生は1名しか参加しなかったので、今団長と二人で彼の穴を埋めています。今回誰も入院しなかったために日本では傷が軽かったのだろうと思われているようですが、傷が軽かったためではなく、病院の治療法のためです。

白求恩医科大学中日聨宜医院の外国人診察室(ここは日本の病院と提携しているため一番安全ということで行ったのですが)、そこでさえ、レントゲン、CTスキャンなどはあったものの、注射針が使い捨てではない、煮染めたような色の布に、ピンセットやその他の外科道具が包んであるなど、肝炎、その他の感染が心配されたためです。

湿布薬ももらえず、わずかな薬をもらっただけで、ひたすら痛みに耐えている先生方を見て、中国は、交流基金の規約に指定されている不健康地だということがしみじみわかりました。

何人かの先生は、様子を見て帰ることを検討しているところです。 今年は宿舎建築その他の騒音問題に、このバス事故と、文部省、外務省は相当ぴりぴり来ているようです。しかし、交流基金(外務省)派遣の私がバスに乗っていなかったことで外務省は本当にほっとしているようです。ていねいなお見舞いの電話をもらいました。

6月に二人の基金派遣の教員が帰った後は、私を除く全員が、文部省派遣で、その半分以上が負傷したのですから大変です。文部省は旧態依然の官僚組織で、外務省と比べるとかなり対応も遅く、ことなかれ主義なのですが黙ってはいられなくなりました。

以前天安門事件があった時も、外務省は早速飛行機をチャーターして、派遣教員の脱出にいつでも対応できる用意があると連絡があり、基金派遣の教員(私の学校の同僚)を感激させたそうですが、その時も文部省からは何の連絡もなく、文部省派遣の教員を激怒させたそうです。外務省は、海外青年協力隊や、国際協力事業団の運営、その他、海外業務に携わる人達の安全確保については長い実績があり、派遣条件については文部省よりかなりいい待遇をしてくれます。

騒音問題

<騒音問題に関しても、私が東京の事務所に連絡するとすぐに文部省に事実関係を確認、積極的に動こうとしました。

文部省側はというと、それを知らなかったため驚いて、東京外大に問い合わせたところ、東外大のセンター長が、来年の定年を控えて問題を起こしたくないばかりに、団長が何度も騒音についての報告をしていたにもかかわらず、握り潰そうとしていたことが判明。文部省はかんかんに怒り、早速中国国家教育委員会にねじ込み、静かな代替宿舎を用意させました。

しかし当時の我々にはまったくその間の連絡がなく、ようやく予備校側との話し合いで、工事の時間制限、カラオケの廃止など、誠意ある対応に何とか折り合いをつけようと思っていた段階なので、その申し出を、丁重に断ってしまいました。中国側も中国側で、これが文部省からの厳命であったことはおくびにも出しません。もし文部省からのものであることを知っていたらもちろん日本に連絡しこちらの状況を説明したのですが、我々はこれでけりがついたとほっとしていたのです。

しかしその後文部省のI氏から、なぜ代替宿舎を断ったのかと、怒りに震える電話が団長にあり、団長も怒りを抑えながら事情説明をしなんとか理解を得ることができました。文部省は面目をつぶされ、団長の外大の親しい友人から、冗談めかして、日本は大騒ぎ、帰って来たらあなたは首になるかも、と手紙が来たそうです。

その後、前にも書いたように、師大に文部大臣の随行員の一人が国家教育委員会の幹部と視察に訪れたのです。この人は留学生課の人で、最近外国から帰国し、文部省のこの担当になったという、とても感じの好い人でした。いろいろ話をして十分わかってもらい私たちはほっとしたものです。

そんなこんなの後のバス事故で、日本ではまた大騒ぎをしていることでしょう。 8月末には文部省のかなり上の人と、外大センター長が予備学校の修了式に出席する予定ですから、その時にセンター長がどんな顔をして団長にあいさつするのか興味津々です。また今回は、安全面、生活状況の改善など、詰めた話し合いをするつもりでしょう。


宿舎が完成
宿舎の完成は、結局8月第三週の予定です。明日は東工大から、事故のお見舞いと実情視察に誰かが来るそうです。

しっかり騒音と、生活状況の困難さを見ていってもらいたいと思います。

現在の招待所には、専門日本語の先生たちが入っていますが、でき上がった部屋が5・6階にあるため、昼間はほとんど断水、夜は2時間程度しかでないそうです。お湯は出るのですが(7時〜10時まで)泥水のような状態が多く、たまに少しきれいなのが出た時に入浴するということです。

なぜ泥水のようなのか原因を調べたそうですが、昨年中にできる予定だった宿舎が一年伸びたために、以前買ってあったボイラーがさびとほこりでどろどろになっていたのをきれいに洗わずに取りつけたためだそうです。

調べた先生の話によると、2年ぐらい立てばきれいになるだろうとのこと、ことほどさように中国は不思議な国です。

でき上がったばかりなのに、ドアがスムーズに開閉できない。これは入口も、浴室も同様です。開かなくてひっぱたらノブが抜けた。鍵がうまく入らない、無理に回して鍵が折れた。コンセントの位置が電気製品のそばにないため部屋の中を延長コードがへびのようにのたくっている。これは部屋によって位置が違い、運の好い人は少しまとも。

天井や壁には新しい壁紙が張ってあるのになぜかあちこち穴が開いている。これは電気系統の職人と、内装の職人との話し合いがなく、ただひたすら内装屋は内装屋の仕事をし、電気屋は電気屋の仕事をした結果だそうです。

共同の台所が悲惨、タイル職人がタイルを先に張ってしまい電気のことをすっかり忘れていた。壁の中にはまったく電気の線が入っていない。そのため、換気扇屋が換気扇を取りつけても差し込みがない。

立派なフード型の換気扇が、コードをぶらぶらさせたまま。工事をやり直す暇がないため、多分来年までそのままでしょう。
宿舎の不具合

何しろ8月末に文部省が来るのですから。私たちが一緒に食事をする時はこういう話題に花が咲きます。先日東工大のS先生のところに奥さんが見え、何日かたって、散々驚いた後、よくここで6か月も過ごしましたね。とまるで不思議なものでも見るような目で言われたと団長が憤慨していました。

古い宿舎に住んでいる団長は、ダニとゲジゲジと湿気の異臭に耐え、それでも新しい宿舎より水が出るだけましだと言っています(最近バルサンを手に入れ、今は快適だそうですが)。

今年の長春は涼しいので専門日本語の先生は、何とかそれで我慢しているようですが、うっかり断水の時にシャワーを浴びたら熱湯しか出てこないということもあります。前に一度、短期で帰ったOさんが、シャワーを浴びている最中に断水になり熱湯が出てやけどをしそうになったことがありますが、ちょうどシャンプーの最中だったので、とても気の毒な状態になりました。共同だったので、次の人が連絡を待っていたのですが、あんまり長く出てこないので様子を見に行って気がついたのです。

彼女の話によると、Oさんは、何とか少しでも泡を取ってからと思い、洗面器に熱湯を入れ、体中真っ赤になって、フーフー冷ましていたそうです。今思うと笑ってしまうような話ですが、冗談ではありません。

後でOさんに聞くとあの時はあんまり情けなくて、涙が出てしまったと言っていました。私たちの新宿舎の部屋は、2階と、3階に二つずつあり(宿泊用として、当時はこの4部屋しかでき上がっていませんでした)、4人がそこで暮らしていたのですが、両階とも宴会場の前で、防音装置のない部屋でのカラオケ、これは目をつぶると、自分が宴会場の真ん中にいるかと思うほどの音量でした。

また私のへやのドアは宴会場のドアに面しているためトイレへ行くのにもシャワーに行くのにも少しドアを開けて様子を見ながら出たものです。

この部屋は狭く、いつも上座に座っている副学長と目が合って、困りました。副学長は宴会要員です。連日昼も夜も師大関係の宴会があるのには驚かされます。中華料理は次々運んでくるので、ドアはいつも開けっぱなしですから。

この副学長、40才ですが32才くらいに見えるほっそりした色白の美男で、我々の呼び名はお公家さん。私の顔を見るとにっこりします。私はいつもお化粧をしているわけではなし、シャワーの後髪振り乱して、トイレに行くのもはばかられ、部屋にこもって、ひたすら宴会が終わるのを待ったものです。

ブレーカー

ブレーカーの問題、これにはついに忍耐強いRさんが我慢の限界を越えて、ブレーカーのスイッチをつかんだまま大声で泣き出しました。2階に私とRさんが住んでいたのですが、2部屋でひとつのブレーカー、それも信じられないほど容量の低いもの。

どちらかがヒーターをつければブレーカーが飛ぶ、ヒーターは一番低いところに設定するのですが、サーモスタットが入ると、また飛ぶ。お湯を沸かすのも相談し合って、彼女は日本から持って来たパナソニックのワープロをうっかり変圧器を通さずに電源を入れたためにショートさせて壊したので、学校のキャノワードを使っていました。キャノワードはバックアップ機能がないため、停電になると今まで入れたものが全部消えてしまうと言うばかなワープロで、彼女は毎晩一生懸命教案を作っていたのです。

頻繁に保存はするのですが、熱中しているとつい忘れてしまう。2か月半後、とうとう限界が来ました。電気屋に変えるように頼んでもできないと言う返事。

中国について思うこと

<工事騒音、カラオケ騒音、等々、今思うとよく我慢していました。

S先生の奥さんは正しいと思います。

そのほか差し込んでもすぐ抜けるため毎晩分解して中を固定させなければ電気が通じない延長コードのコンセント、ボルトとナット入りの野菜いため、ガラスの小片入りのご飯(これに文句を言うと、調理場の天井を指さし、工事のせいだと言い、一言の謝罪の言葉もない、でもにこにこしながら言うので、仕方がないかとあきらめてしまう)。

うっかり紙を流すと洪水になるトイレ。かからない電話。押すと穴に嵌って上に上がらないプッシュホンのボタン。

宿舎と生活備品関係では、本当に悪夢を見ているようでした。でも果物、野菜などは、安くておいしい。

例えば今はももの季節ですが、大きいももが5個で1.5元(15円)。トマト、なす、きゅうり、じゃがいも、三度豆、玉ねぎ、ピーマン、取り合わせて袋に入れて、1.3元。

肉類は高い。特大の骨付き鶏のもも肉は1本7元。

食堂も安いので、すべての不満を食い気と、学生の魅力でカバーして今日まで来たと言えるでしょう。

しかし、長年日本と関係のあるこの専科招待所でさえこうなのですから、中国との合弁企業などはどんなふうにやっているのでしょう。中国へ進出している人たちの話をぜひ聞いてみたいと思います。

北京にデパートを最近作った八百半は、そのデパートから手を引いたそうです。私は誰にも勧めません。中国は日本人の手にあまります。中国側を日本化するのでなくて、日本側が、中国化する以外に、中国でうまくやっていくことは不可能なような気がします。

それほど手ごわい相手です。でもそれだけおもしろい国と言えます。またまた長くなってしまいました。早く出さないと帰国の日になってしまいます。帰国は9月9日、上海から関西国際空港に直接帰ります。

9月11日に学校へ行き、帰国の挨拶と辞令をもらい、後は九月いっぱい休むつもりです。長春は9月1日に出発。旅行はやめて上海と、その近くの浙江省へ行こうと思っています。浙江省は水墨画のふるさと、美しいところだそうです。上海に約一週間これも楽しみです。日本は猛暑が続いているそうですが、くれぐれもご自愛下さい。長春は涼しいのが救いです。          





最後まで読んでいただいてありがとうございました。
長春の東北師範大学はいまやPCルームあり、最新の機器のLL教室あり、
宿舎は全室暖冷房つき、生活には全く不自由ないそうです。
学校の場所も変わっており、シャングリラホテルもあって、
街の様子は久々に行った先生の話によればまるで浦島太郎になったようで、
20年前はすでに50年も前のイメージだそうです。
最後のこの第4報はバス事故あり,騒音問題ありで
在職中にアップするのがはばかられましたので、こっそりと今日アップしました。
その後、『てなもんや商社」や「望郷」などを読んで、
中国に関しては「やはりこの経験があって、初めて分かる部分があるなぁ」
「面白い経験だったなぁ」としみじみ思いました。